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朝清ちょうせい法印 (-1816)

在住期間:1799年9月〜1805年9月




★ 墓碑

 墓碑に「文化十三丙子歳七月十三日於」「丹後国発信貴西明院入寂」とある。また、蓮華寺に残されている記録によると「寛政十一年(1799年)九月より文化二年(1805年)九月まで住、此(この)間七年」とあることから、蓮華寺の住職を1799年から7年間務めた後、1805年に現在の発信貴山縁城寺(京都府京丹後市峰山町橋木873)に戻り、11年後の1816年7月13日に亡くなられている。

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權大僧都法印朝清
權大僧都法印朝恵 各不退位
 
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文化十三丙子歳(1816)七月十三日於
丹後国発信貴山西明院入寂
現世朝龍謹造之



★ 発信貴はしき縁城えんじょう

 京丹後市峰山町橋木(はしぎ)に在って717年開創の古刹である。明治20年に西明さいみょう院から縁城寺へと改称されている。隆盛時7ヶ院25坊あったというが、度重なる火災で西明院本殿を含むそのほとんどを失なっていて、現在、山門から続く左右の田畑はそれらの跡地であると云う。その中で嘉永元年(1848年)に再建されたと云う本堂と昭和38年(1963年)豪雪で上部を失った多宝塔が何とか往時の姿を留めている。

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本堂へ向かう参道
 
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広い境内に建つ嘉永元年(1848年)建立の本堂
 
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正平六年(1351年)造立の宝篋印塔
 
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大迫力の仁王像、だが傷みが激しい
宝永三年(1706年)の作と云う

朝清法印の墓
  墓碑に「遺弟龍濟敬樹」とあることから縁城寺二十二世ご住職の龍済法印が師のために立てたものと分かる
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「朝清法印墓」
「文化十三子年」
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「七月十三日寂」
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「遺弟龍濟敬樹」

縁城寺歴代住職の墓碑
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