下塚地区会館の中には大変立派な観音堂が設えてあり、聖観世音菩薩の他5体の仏像が祀られていて地区の方々の篤い信心によって代々大切に守られてきました。このお堂は元は小山神社の隣にあった下塚地区の旧会館の中に同じように祀られていました。さてこの旧会館ですが、そのお堂に残されていた安政二年(1855年)の「本尊補修祈祷札」に拠れば、この時ここには長法庵と名付られた庵があり智貞という名の尼さんが住んでいたと云います。この祈祷札にはその智貞禅尼の言葉で次のような内容が記されています。
この庵はその昔舟越山長法寺という名の寺であった。その寺の跡は今もこの庵の基礎として残っている。ここに祀られている観音像はその長法寺のご本尊で奈良の仏師の作である。そして古よりこの地の人々の信仰を集めていた。しかし長い歳月によってお堂もご本尊もすっかり傷んでいた。檀家も収入もなくなっていた寺は修繕することも叶わず住職も他界されてしまった。弘化3年(1846年)あらゆる手を尽くし信者に布施を募りお堂は再建できた。しかしその浄財も本尊の補修には及ばなかったが、今年蓮華寺の實全上人の命により庵主智貞禅尼が各方面からの信者の浄財を使い仏像を治すことができた。これにより、開眼供養をお願いし受けて頂いた蓮華寺、温泉寺の僧侶の方々によって真言密教の法要が営まれ、現世来世にわたる祈りを成就することができた。
安政二年(1855年)7月17日、真新しいお堂が光に照らされる 願主 長法庵智貞尼
ここで云う庵とは「かつての長法寺の基礎の上に建っている」とあることから弘化3年(1846年)に再建されたお堂(本堂)のことであり、いつしか集会場として使われることになったものと思われる。
蓮華寺に残る文書では、長法寺は養和元年(1181年)開山とあり山号を円久山としている。
古より県道沿いの地蔵堂にたたずみ、村人を見守っている7体のお地蔵様がある。ひとまわり大きく片膝を立て中心に座っているお地蔵様とその左右に直立する6体のお地蔵様である。直立する6体は一組の六地蔵で、中心の地蔵とは石質も異なり時代も別と考えられる。この六地蔵の台座にはそれぞれ右から次の文字が刻まれている「天保十一子(1840年)七月日」「世話人 与市右ヱ門 喜右ヱ門」「奉造立」「施主當村中」「六地蔵」「施主知貞尼」。ここでも長法庵の智貞禅尼がこの地区の興隆に尽力されていることが窺い知れる。
四十八夜に渡って念仏を唱え先祖を供養するのが四十八夜念仏で、この碑には次の文字が刻まれている。貞享三年(1686年)七月一日に念仏講の27人が行を終えたとあるようだが、続く「十三年」は、この間、毎年行を続けたということであろうか。
七月朔日
時〒貞享三年
(梵字)下塚村中念仏講衆
廿七人四十八夜十三年
之供養為菩提也