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寺史の解説

 当山は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を本尊として竹野町(たけのちょう)(とどろき)に位置し、八方を山に囲まれて、その形が蓮の花に似ていることから八方の峰山、略して山号を「峰山(みねざん)」と称する。

★ 年表

年号西暦                  出    来    事                  
1慶雲4年707年行基(ぎょうき)が当山蓮華寺を開創する
2養老3年717年林に延命山常楽寺を開創する
3天暦8年954年小丸に千通(せんず)山高連寺を開創する
4永観2年984年河内に朝野山施薬院を開創する
5養和元年1181年下塚に円久山長法寺を開創する
6文治3年1187年小城に発起山玉伝寺を開創する
7元仁元年1224年この頃、比叡山の光賀律師(こうがりつし)が当山蓮華寺を中興する
8元徳2年1330年京都東寺の杲宝(ごうほう)法印が来住して当山蓮華寺を再興し真言密教を広める
9至徳元年1384年但馬西国三十三ヶ所霊場を温泉寺(城崎)中興の高僧清禅和尚が開く
10永享2年1430年山名四天王の重臣、垣屋氏(豊茂とみられる)が轟城(青葉城)を築く
11天正8年1580年轟城城主垣屋豊続は豊臣軍羽柴秀吉の第二次但馬進攻に敗れ、その後没落する
12慶長10年1605年和泉国陶器藩(いずみのくにかわらけはん)の藩主小出大隅守三尹(こいでおおすみもりみつただ)が但馬国須谷村に代官所を設置する
13延宝7年1679年境内に八幡神社を再建する
14延宝9年1681年八幡神社に大神楽が奉納される。これが轟大神楽の始まりとなり今に伝わる
15貞享3年1686年本堂が完成する
16元禄10年1697年山門を建立する(須谷代官所の門が移築されたものと思われる)
17宝永2年1705年鐘楼堂が完成する
18享保6年1721年本殿宮殿を建立する
19延享2年1745年奥の院太子堂を建立する
20弘化4年1847年蓮華寺境内に石造賽の河原が造られる
21嘉永五年1852年江戸時代末期、山焼きによる類焼で蓮華寺本坊大聖院等全山を焼失する
22明治初年1868年轟阿古谷神社本殿が灯火により焼失し蓮華寺境内八幡神社へ移される
23明治5年1872年神仏分離令により八幡神社、阿古谷神社が現在地(森神社)に移される
24明治7年1874年10月7日蓮華寺に轟小学校が創立する(林地区〜和田地区)
25明治15年1882年轟簡易小学校が轟芝居堂に開設される
26明治22年1889年町村制公布により林地区から草飼地区までの中竹野村が誕生し轟に役場が置かれる
27明治23年1890年轟尋常小学校が現轟作業場の場所に新築開校する
28明治29年1896年美含(みくみ)郡、気多(けた)郡、城崎(きのさき)郡が合併し城崎郡となる
29明治30年1897年鬼神谷の美含銀山が閉山する
30明治39年1906年轟尋常小学校が中竹野第一尋常高等小学校に改称する
31明治40年1907年中竹野第一尋常高等小学校が現小学校グラウンド南側に新築開校する
32明治42年1909年蓮華寺境内に、四国八十八ヶ所霊場、西国三十三ヶ所観音霊場を整備する
33明治44年1911年山陰線城崎・香住間が開通する
34大正元年1912年轟の阿古谷で竹野鉱山が操業を開始する
35大正8年1919年轟の竹野鉱山で火力発電所が稼働する
36大正11年1922年中竹野村に電灯がともる
37昭和8年1933年前住平田俊f(しゅんしょう)大僧正、蓮華寺住職を拝命する
38昭和9年1934年室戸台風で竹野川が氾濫し甚大な被害。当山にも多数の避難被災者が身を寄せる
39昭和14年1939年木月(もくげつ)道人夫婦で蓮華寺に滞在、襖絵を描く
40昭和24年1949年東大谷、轟で操業の竹野鉱山が閉山する
41昭和30年1955年竹野村、中竹野村、奥竹野村、三椒(さんしょう)村が合併し竹野村が誕生する
42昭和32年1957年町制を布き、竹野村を竹野町とする
43昭和34年1959年中竹野小学校が現在の鉄筋コンクリート校舎へ新築移転
44昭和38年1963年仏殿屋根銅板葺き替え落慶法要、梵鐘再鋳供養を行う
45昭和43年1968年楠一木造り観音像造立開眼法要を行う
46昭和54年1979年石造賽の河原が竹野町指定文化財となる
47昭和54年1979年絹本切金著色大日如来画像が竹野町指定文化財となる
48昭和54年1979年絹本切金著色愛染(あいぜん)明王画像が竹野町指定文化財となる
49昭和54年1979年木造聖観世音菩薩立像が竹野町指定文化財となる
50昭和54年1979年木造十一面観音菩薩立像が竹野町指定文化財となる
51昭和57年1982年弁天堂建て替え、経蔵屋根葺き替え落慶法要を行う
52昭和57年1982年但馬七福弁財天奉告法要を行う
53昭和62年1987年奥の院大師堂建て替え落慶法要を行う
54平成2年1990年現住平田俊成(しゅんじょう)、蓮華寺住職を拝命する
55平成4年1992年蓮華寺太鼓踊りが「轟の太鼓踊り」として兵庫県指定無形民俗文化財となる
56平成16年2004年木造十一面観音菩薩立像の修復法要を行う
57平成17年2005年豊岡市、城崎町、竹野町、日高町、出石町、但東町が合併し豊岡市が誕生する
58平成18年2006年本堂建て替え落慶法要を行う
59平成18年2006年本堂四天王像の修復法要を行う



★ 行基(ぎょうき)

 近畿地方を中心に日本各地で寺院や橋の建設、治水工事等を行ない、布教活動に歩いた大僧正行基が 奈良時代(707年)に当山を開創したと伝わる。


★ 光賀律師(こうがりつし)

 鎌倉時代初期(1224年)に比叡山惣持院の四明光賀律師が来住し、堂塔を整え天台宗寺院として中興した。四明とは比叡山すなわち天台宗を表す。なお、光賀律師は坊岡の満願寺開山の高賀律師と同一人物ではないかと考えられている。


★ 杲宝(ごうほう)僧正

 鎌倉時代後期(1330年)には、京都の東寺観智院を開山し真言教学の中興の祖と称される学匠杲宝僧正 (1306-1362) が来住して、山内に七堂伽藍と塔頭八坊を整備し真言宗寺院として再興した。
 また杲宝僧正が但馬、丹波地方に及ぼした影響は注目すべきものであり、都の文化を導入し地域住民に与えた教化の実績(文化の交流、教育等行政への関わり)は、今に伝わる習俗、言語、年中行事、民俗芸能、寺子屋教育などを研究すれば計り知れないものになると思われる。


★ 塔頭 (山内の小寺) 八坊

 奥之坊(遍照院)、大聖院、大門坊、泉随坊、松尾坊、中尾坊、藤本坊、峰入寺宝積院(事務所)

 当時はそれぞれの坊に檀家を割り振っていたという。ただ現在ではそれらの跡に標柱を残すだけとなり、往時の面影を偲ばすものもない。


★ 七堂伽藍

 本堂と鐘楼だけの小さなお寺に対して、七つの伽藍で構成される立派なお寺という意味で用いられる。また、 型どおりに七つの建物が完備しているもの。真言宗では大師堂、金堂、講堂、経蔵、塔、潅頂堂、鐘楼などをいう。 当時の当山の総門は現竹野町門谷地区にあって仁王像が立ち、奥の院は現香美町奥佐津地区の三河権現にあったという。因みに、現在の蓮華寺山内に建っていたという主な堂塔は次の通りである。

  本堂、奥の院(大師堂)、弁天堂、不動堂、毘沙門堂、愛染堂、
  行者堂、鎮守社殿及び拝殿、庚申堂、開山堂、大塔、これらに上記の八坊が加わる


★ 門末坊舎


 隆盛時においては次の末寺があったというが、現在は遺物はあれどもそのいずれも存在しない。また檀家も当時は18ヵ村を数えていたというが、現在は轟を中心とする7地区へと大きく減らしている。


★ 鳥有(うゆう)に帰す

 火事にあって全焼し何もかも失ってしまうこと。江戸末期の山焼きによる類焼は全山を鳥有に帰し、歴史ある伽藍や仏像はもとより、京都から贈られた数々の文化財や貴重な資料までも悉く失ってしまったという。


★ 須谷村にあった代官所の門

 現在の山門となっている旧大聖院の門は、元々は江戸時代初期の慶長10年(1605年)に出石藩主小出秀家の弟、和泉国(いずみのくに)陶器藩(かわらけはん)の藩主小出大隅守三尹(こいでおおすみもりみつただ)が但馬国須谷領(現在の竹野、須井、三原を除く竹野町のすべてと日高町の神鍋地区を合わせた5000石)である須谷村に設置した代官所の門であった。そして、元禄9年(1696年)に生野奉行所の支配となり須谷村の代官所は閉鎖され、その後に当山に移築されたものである。

山門


★ 旧山内図

山門図



★ 略縁起

蓮華寺略縁起はこちらから







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